昭和40年11月23日 朝の御理解



今こそ椛目に御神縁を頂いておる、うー、信奉者の皆さんが、打って一丸となって、信心をさしてもらい、撃って一丸となっての、おかげの受けものを、頂かせてもろうて、それがそのまま、銘々の、受けものともなり、力ともなり、それぐらいのおかげを頂かなければならない時だと私は思います。一人、二人がおかげを受けたからというのでは出来ん。打って一丸。
今朝方、お夢を頂いておった。何かの大売出しというか、大安売りというか、そういうような催しなのである。中に、呉服類がある中に、一本の帯を、博多織のような帯。それをこう、といて、私が、それこそ、こんもりと茂った大きな森なんですね。その、森ですから、様々な木が植わっております。杉もあれば、松もある。雑木もあるといったような、そのこんもりとした森をです。私が、ぐるーっと、その帯で取り回して、ああ、これは、丁度この帯が、ここを、丁度一回りする良か帯びたい(笑い)ち、言うてから、私が言いよるところで目が覚めた。「ね」。信心の帯をせよと。しっかりと、しっかりと信心の帯をせよと、こう仰る。一人、二人がしっかりと信心の帯をしとるとじゃない。その、雑木林というか、その、大きな森というのは、「ね」。森という字は心が、木を三つ書いて森と呼ぶ。「ね」。これは、もう、参者一体ということだと思う。神様。私、私共、取次ぎ者。言うなら、金光大神。そして、信者氏子。天地の親神様、金光大神、信奉者、という事になりましょう。ここでは神様は私。皆さんはということになりましょう。この、森全体にです。一回りするようなその大きな帯。そしてこれをこう結んだら丁度良い。そういう信心の帯をです。嫌が応無しに、どうでもこう、さしてもらわなければならないという事です。
大きなおかげを頂きたい。誰でもその、願いである。大きなおかげを頂きたい。より、広大おかげを頂きたい。ならば、どうしても、広大なおかげの頂けれる、信心。おかげの受けられる受けものが、これはもう、当然必要である。昨日、私は、ある方の難儀な、難儀というよりも、どう申しましょうかねえ、どうも心がさばけん。どうも、心が、誰々さんが、どう言いなさったことが、心に引っ掛かってです。どうも、胸がさばけん。お取次ぎを頂いて願われる。そしたら、神様から、あんな字はないですねえ。さんずいに丘という字を頂いた。こんな字はないですね。ないでしょやっぱ。丘を越えてというでしょう、あの丘です。あの、岡崎さんの岡じゃないです。きゅうとも言うですね。どういうことだろうかと私は思った。ですから、私は、その、バラバラに、いわば、バラバラにというか、さんずいと、「え」、「え」、「え」、浜はこれに点、点がいります。「ね」。そうでしょうが。「ああ」。さんずい、「ね」。さんずいということは、お恵みとし、丘ということは、これは、まあ、言うなら、山に掛かる前という風に感じておる。「ね」。ですから、そこんところをもうちょっと一押し、今言うようにその、点々、点を二つ、点々を押せば、いわば浜になる。と、まあ、私は頂いたんです。まあ、貴方、何時も大きなおかげを願っとってから、もう、ちょっと一押しせじゃこて。そすとそれは、浜になる。「ね」。それを、もう一つ向こうには山がある。「ね」。例えば、これに点々を打って、浜になるならです。今度は丘じゃなくてから、山を越えれば(笑い)海になるということになりゃせんかと、私は申します。「ね」。いわば、心の中に感じる難儀、形ののうえに感じる難儀。「ね」。心の上に感じる難儀をまあ、丘とするなら、形の上に受ける難儀を、山とすると致しましょうか。「ね」。今こそ、丘を超えていこうとしておるのだ。もう、超えたら、浜だ。そこには、洋々とした海原が開けてくる。海が見えてくる。「ね」。浜を超えれば、あー、丘を超えれば浜ならば、山を越えれば、海ということになるではないか。「ね」。どうぞ、大海のような信心をさせてください、そしてどうぞ、鯨の住むようなおかげを頂かせて下さいとというて、願っておるのでしょう。「ね」。もう、ほんとにあの、神様からこうして、御理解を頂きますと、もう、ほんなごと、あら不思議なことですね、一遍で胸がすきっとする。そして、次には、山でも越そうという元気が生まれてくる。「ね」。私共は、そういうようなです、例えば、あり方に椛目全体の人が、なりきらせてもらわなければ駄目だと。ちょっと丘があれば、もう、よろよろする。足踏み状態になる。「ね」。一遍に山には登られん。やはり麓から行かないけん。先ず、丘から行かないけん。そういうような私共がです。例えば、あー、それを神様の、いや、さんずいへん、「ね」、その丘そのものを、神様の恵みのものだと。お恵みのものだと、確信するということ。そういう気持ちになるということが、私は、信心の勢が揃うことじゃなかろうかと。同時に私、今朝から、お夢を頂かせてもらうのにです。いわゆる、大売出し、大安売りという感じ。今こそ椛目では、私は、大売出し、大安売りの時ではなかろうかと。鳴り物入りで、宣伝している時じゃなかろうかと。「ね」。普通で言うならばです、普通で言うならば、千円持たさなければ、いただけない徳でもです。いうなら、五百円で徳が受けられる、力が受けられるという時じゃなかろうかということです。「ね」。そういう一つの、機会というものは、何時もあるものではない。そして、私共が、今申しますようにです。お金も恵みである。「ね」。一切が神様の恵みのものとして、私が、その、まあ、難儀を感じるなら感じても良いけれども、そこを、もう一押し、点々、という程度のおかげを頂けば、それが浜になる。丘を越えれば浜になる。丘を越えれば浜になる。「ね」。山を超えれば海になる。いわば、今こそ、山登りの信心だろうかと言うような信心とはです。「ね」。丘よりは、もちっと、いわばきつい。いうなら苦しい。山登りをしておるときのような気持ち。けれど、それこそ、神様のお恵みであると。それこそ、大海のような心持にならして頂いてです。大きな心にならせて頂いて、一切を黙って受け抜かせて頂くという、信心から海のおかげが頂かれる。そこには、もう、いわんでも鯨が住むようなおかげ、「ね」。あさーいことばかり言う。浅はかなことばかりいうて、「ね」。そこに、鯨の住む筈は無いじゃないですか。「ね」。人間の知恵や力。たった、目先のことばかり言うておる。そういう、浅い、浅はかな考えでは、多くの魚が住むはずがない。「ね」。神様の思いの深さ、広さというものは、私共に計らせてくれる訳ではないけれども、兎に角、信心させて頂いておって、「ね」。起きてくる事一切が、神様の恵みとして、受けていくところの、おかげを頂かせてもらわなければならん。ために、心構えに、今こそ椛目打って一丸となっての、大きなおかげを受けなければならない時であるから、「ね」。このくらいの修行は当たり前と、という私は、信心の姿勢というものが、必要であるとこう思う。昨夜、御祈念にかからして頂くちょっと前でした。中野さんが、ここに出てまいりましてから、私が、日々信心の稽古をさせて頂きますのに、私の心の中に掛けさせてもらう、いわゆる一つの、心の守りにさせてもらう何か、御教えを頂かせて頂きたい。それを、何かに書いて、そしてその、座右の銘にしたいと。いわゆる、机の前にでも張っておいて、それを何時も、自分の心に掛けておきたいと。何か神様に、そのことを、どういうことを私は、心に掛けさせてもらい、頂かせてもらえばよろしいでしょうか、というお伺いがあった。そしたら、神様から私、頂きました。一切修行と。一切修行。そして、えー、渾然と湧く力と頂きました。「ね」。一切が修行。どうぞ、今日一日、どういうようなことがありましても、一切修行として、受けさせて下さいという願いが、「ね」。おかげは我が儘であろうがです、「ね」。浜に出れば、もう海が見えておる。山を越えれば、もう海の中である。だって、さっきから頂きます御理解から言うとそうです。「ね」。大きなおかげを頂きたい。ならば、先ず、大海のような信心をさせてもらわにゃいけん。それには、今、中野さんが頂かれたように、それを、一切修行として受けるのである。一切修行ということは、神様の恵みとして受けるのである。「ね」。為には、どうぞ、それを恵みとしてです、お恵みとして受けられるためにはです、私共の心の中に、渾然とどこから湧いてくるか分からん力というものを、頂かなければ受けられない。先生は、仰るけれども、やっぱり苦しいことは苦しい。痛いことは痛い。ということになる。不思議に、自分の心の底から湧いてくる喜びというか、渾然と湧いてくる、その力を持って、受けるときにそれは、もう、お恵みということになる。一切修行、渾然と湧く力。「ね」。渾然と湧く力を先ず願わなければならん。だから、渾然と湧く力を、どうぞ、どうぞと言うただけではいけんから、そこに、修行が必要であると。しかも、その修行というのは、和行、即、心行と。言われるような、様々なその、心行、和行がです。様々な形の、工夫されるところの、その修行がです、そのまま、心行にでも繋がっているような修行でもさせて頂いておかなければ、神様は、渾然と湧く力を与えては下さらない。渾然と湧く力が頂けてくるときに、どのようなことでも、一切修行として受けることが出来る。そこに、今日の、また御理解、「ね」。さんずいに丘である。これにもう一つ点々を打てば、浜である。心にどうも、はばからんことがある。いらいらする。歯がいい。腹が立つ。そういうときは、もう一押し、金光様、金光様を、まあ、一言、三言となえてみい、心ゆきのさばけないときにはです、そのまま、言葉に出さずに、形に表さずに、先ず、御神前にぬかづけ。そこには、自分の心が治まってくる。いわば、点々をしたわけである。いわば、それが、さんずいに丘を書いて点々と書けば、もう、浜である。そのくらいの修行は、修行を超えさせてもらって、浜に出るならばです、山を越したら、海になろうということである。「ね」。それよりも、もっと、きついとか、辛いとかという、修行を山とするならばです。そういう山を超えさせてもらうところの、信心修行に頂けてこそ始めて、大海のような信心ということになるのである。「ね」。そこには、頼まんでも、鯨がすむようなおかげにもなってくる。しかもそういう、おかげはです。椛目の場合、現在の場合、二人、三人のことでは出来んのです。打って一丸になって、例えば、私が、森と、大きなこんもりとした森に、私は、これを、大売出しで売っておるところの、帯を、私がこう、帯をしておるように、「ね」。今こそ、私共が、力をうけよう、お徳を受けようというならです。いわば、力のお徳の大安売りのありよるような時だと、今の椛目は。普通、信心がなければならんものなら、今こそ、本気で頂こうという気になりゃ、五百円ででも買えるというおかげである。この機会を逃しちゃ買い損なう。というような気持ちで、しかも、森である。神様と取次ぎ者、そして、皆さんと、三つ、木の心。「ね」。三つの木という字を三つ合わせたら森という字になるでしょうが。「ね」。それが、打って一丸となって、信心の帯がなされていくときにです。「ね」。椛目的、大きないわゆる、広大なおかげになるであろう。それが、一人一人の力にもなろう。一人一人の徳にもなろうという事になる訳じゃないでしょうかね。どうぞ、中野さんが、昨夜頂かれたそれではないですけれども、一切が修行と。どうでもそのためには、渾然と湧く力を与えて下さいという信心修行が、なされていかなければならんと思うのでございます。どうぞ。